本記事では、高松城の二の丸・本丸・東の丸について詳しくご紹介します!
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二の丸
二の丸にはかつて御殿と五棟の隅櫓がありました。しかし、新たな御殿が三の丸に建てられたことに伴い二の丸の御殿は取り壊され、以来二の丸は現在にいたるまで広場となっています。
二の丸東虎口は外桝形になっていたと考えられ、石垣の間には鉄門が設けられていました。鉄門は左右の石垣上に立つ黒鉄櫓(左側・平櫓)と武櫓(右側・二重櫓)とを結ぶ櫓門であり、その名が示す通り門扉には鉄板が取り付けられていました。
また、右側の石垣上には小規模な床下収納状の施設が確認されています。寛文二(1662)年の落雷によって簾櫓が炎上し、鉄門付近まで延焼しました。この後に石垣の積み直しが実施され、同時に床下収納が設けられたと推察されています。
(現地案内板と『鉄門石垣調査・保存整備工事報告書』より)
虎口を構成する石垣には矢穴が確認でき、鏡石もいくつか見られます。
武櫓台は石材同士の隙間が少々大きくなっており、また補強も設けられるなど石垣の強度には少々不安が残ります。
高松城の水堀は水路を介して海とつながっていますが、潮の干潮による水位調整のための水門が鉄門の手前に設けられています。
タイやチヌといった海水魚が水堀を優雅に泳いでおり、エサやり体験をすることもできます。
また、水門のあたりから水堀越しに本丸や天守台を収める構図は高松城の定番ショットの一つです。
二の丸の大部分は芝が敷かれた広場となっており、曲輪を取り囲む石垣を除くと目立った遺構はありません。
現在は玉藻公園の西入口になっている二の丸西虎口ですが、かつては刎橋口と呼ばれ、小さい門が設けられていたようです。
虎口の右側(南側)の石垣が張り出した箇所は櫓台であり、弼櫓という平櫓が立っていました。
虎口の北側、二の丸の北西隅も櫓台であり、廉櫓という二重櫓が立っていました。
弼櫓台と廉櫓台はともに二の丸から外側へ張り出すかたちで設けられており、寄せ手に対して横矢が掛かるようになっています。
廉櫓台も弼櫓台と同様に二の丸から外側へ張り出すかたちで設けられており、寄せ手に対して横矢が掛かるようになっています。
また、二の丸の南西隅には文櫓という平櫓が立っていました。手前の一段低い石垣上には文櫓と接続する多聞櫓が存在したことが予想されます。
本丸・天守台
非常時には鞘橋を切り落とすことで、四方を水堀で囲むまれた本丸は独立した曲輪として機能します。
現在鞘橋には屋根がついていますが、かつては「らんかん橋」と呼ばれる屋根がない橋でした。寄せ手を攻撃する際に屋根は障害となりますが、泰平の世になるにつれてこうした防御面の懸念は不要となり、屋根をつけることで橋の老朽化を防いだと考えられます。
(現地案内板より)
本丸虎口は食い違い状になっており、本丸への侵入を容易には許しません。
ここには中櫓という櫓門が設けられており、本丸の北西に存在した中川櫓(平櫓)と一体化した構造となっていたようです。
本丸には中川櫓のほかに矩櫓(北西隅)と地久櫓(南西隅)という計三棟の櫓が存在し、各櫓の間には多聞櫓が設けられていました。
地久櫓は二重櫓であったらしく、櫓台からは穴倉が発見されています。
一般的に天守や櫓の穴蔵へは石垣の側面に出入口を設けて穴倉へ直接出入りします。しかし、地久櫓台にはそうした出入口は確認されておらず、一度櫓内に入ったうえで一階から出入りしていたと考えられています。
天守台は、天端幅(天守台の上辺)東西22.3m×南北21.7m・高さ(水中の根石から)14.4mで、深さ2.7mの地下一階に天守閣へ出入りするための出入り口が設けられています。
調査の結果崩落の恐れがあることが判明し、平成十七年から7年の歳月をかけて石垣の解体修理が実施されました。
床面には58個の礎石が「田」の形で配されており、このうち中央の礎石には動かされた形跡がありました。くわえて、礎石の空白部分の4箇所で柱穴が検出され(現在は埋め戻されています)、高松城の天守閣は掘立柱と礎石を併用した珍しい構造であったことが判明しました。
天守閣が解体された後に五代城主松平頼重を祀る玉藻廟が天守台上に建造されましたが、石垣修理工事に伴い撤去されました。
高松城の天守は三層五階(地下一階)、高さ26.6mと四国最大規模を誇る立派な天守でしたが、老朽化のため明治十七(1884)年に取り壊されました。
上層(最上階)が下層(三階)より張り出した南蛮造である点や天守台からせり出すような形で設計されている点が外観上の特徴として挙げられます。
高松市は発掘調査を行い、文献や絵図、古写真等を収集するなど天守閣の復元に向けて動いていますが、内部の意匠(特に階段の位置)に関する復元根拠に乏しく、復元計画が難航しています。
東の丸
米蔵が設置されていたことから東の丸の北半分は米蔵丸と称される一方で、作事丸と呼ばれた南側には工事を管理する事務所のような建物があったと考えられています。
現在は、曲輪北側の石垣と艮櫓台、東側の石垣の一部が残ります。
現在は三の丸の北半分がレクザムホール、南半分が香川県立ミュージアムになっています。レクザムホールは二棟の建物で構成されており、両棟を結ぶ連絡通路は石垣を跨ぐ形で作られています。
現在は桜の馬場に位置する艮櫓が立っていた艮櫓台。
レクザムホールの建設に先立って実施された発掘調査によって、艮櫓台のあたりから海に突き出した石積の突堤が確認されました。突堤とは、沖合に向けて海岸(ここでは北側石垣)と直行方向に設けられる、海岸浸食を防止するための堤防状の構造物です(Wikipediaより)。当時この辺りは海に面していたので、櫓台や石垣を守るために築かれたのでしょう。
東側の石垣は北側の一部のみが残っています。
レグザムホールの南には県立ミュージアムが立っていますが、その建設に伴う発掘調査によって東側の石垣の失われていた南半分が確認されました。現在は発掘された石垣の上に石材を積み足して石垣を復元し、さらに水辺を作ることで堀をイメージできるように設計されています。
まとめ:今後が楽しみな高松城
水堀と石垣、松が調和した景観は大変美しく、高松城でしか見られない遺構も少なくありません。重要文化財に指定されている四棟の櫓と門はもちろんのこと、復元された桜御門や天守台も必見です。高松城【玉藻公園】公式ウェブサイトで櫓と門の公開日時をご確認のうえ、櫓と門の外観だけではなく、内部まで見学されることを強くおすすめします!
桜御門の復元に引き続き、天守閣の復元計画も進められるなど、高松市は高松城の整備に非常に力を入れていることが伺えます。一人のお城好きとして、そんな高松城の今後が楽しみです。
参考
高松市公式ホームページ 最終アクセス2024年8月4日
香川県教育委員会. 1995.『県民ホール小ホール建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』
高松市教育委員会. 2007.『鉄門石垣調査・保存整備工事報告書