【高松城(香川県高松市)】② 艮櫓と復元された桜御門

本記事では高松城のうしとらやぐらと桜御門、桜の馬場、三の丸について詳しくご紹介します!

基本情報や見どころをまとめた前回の記事はこちら。

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香川県高松市、高松駅の目の前に位置する高松城。 水堀が張り巡らされた日本有数の海城には2つの三重櫓や巨大な天守台が残ります。 高松城はこんなところ 生駒親正は豊臣秀吉から讃岐国を与えられ、天正十五(1[…]

桜の馬場

かつての半分ほどの大きさになってしまった桜の馬場。曲輪東側にある太鼓門枡形と艮櫓は必見です。

出典:筆者作成

太鼓門枡形

かつては桜の馬場の南側に大手門が設けられていましたが、旧披雲閣が三の丸に建てられたことに伴い太鼓門(現在の東入口)へ大手が移されました。

旭橋は寛文十一(1671)年に架けられ当時は木橋でしたが、明治四十五(1912)年に石橋へと改められました。

寄せ手の直進を妨げ、側面から攻撃を浴びせるために旭橋は門に対して斜めに架けられています。

現在は高松城公園の東入口である高麗門は「旭門」といい、門扉は格子戸状の透かし戸とします。

太鼓門は内桝形となっており、枡形の正面に設けられた旭門と桝形を左に曲がったところにかつて存在した「太鼓門(櫓門)」によって構成されていました。

枡形とは二つの門の間に設けられた方形の空間のことであり、寄せ手が直角に曲がらないと城内へ侵入できない構造にするとともに、守り手が多方向から寄せ手を攻撃することを可能にします。

桝形内部にはうずみもんが設けられおり、説明板には非常時の城主の脱出のため、寄せ手を背後から攻撃するための門であると記されています。

ですが、非常時に大手から脱出するとは考えにくく、あまり腑に落ちません。

門の表面に見られる無数の小さな穴はかつて門の表面に鉄板が取り付けられていた痕跡です。

高松城の石垣の大部分は自然石をそのまま積み上げた「づらづみ」ですが、太鼓門周辺の石垣は丁寧に切り揃えた石材を隙間なく積み重ねた「きりこみはぎ」となっています。

艮櫓

現在は桜の馬場の太鼓櫓跡に立つ艮櫓ですが、かつては東の丸の北東隅にありました。城の南東(巽)に位置しながら、北東を意味する艮櫓と呼ばれるのはこうした経緯によるものです。

艮櫓は三層三階、本瓦葺、入母屋造であり、延宝五(1677)年に建造されました。初層の石落としから三層目に至るまで隙間なく鉄砲狭間が配されるなど、実戦を意識した造りが特徴的です。

初層の妻側には大きな千鳥破風、二層目の平側には唐破風、三層目には入母屋破風があしらわれています。

初層の三方に大きく張り出した石落としが設けられていますが、櫓を移築した影響により石落としの一部が城の内側を向いています。

太鼓門を抜けた先の広い敷地は桜の馬場跡であり、かつてはここで馬の教練をしたそうです。現在は当時の半分ほどの広さとなってはいますが、市民の憩いの場として春にはたくさんの花見客で賑わいます。

桜の馬場の南側に残る石垣は、現在地へ大手が移転する前のかつての大手門の名残です。

三の丸

藩の政庁及び藩主の居館として用いられた旧披雲閣が置かれるなど高松城の中心であった三の丸。桜の馬場とは土橋で結ばれ、その入口には再建された桜御門が鎮座します。

出典:筆者作成

桜御門

2022年に竣工し、堂々とした存在感を発する桜御門。かつて桜御門の両脇には多門櫓が連なるように立っていました。

桜御門は桁行三間・梁間三間、本瓦葺、入母屋造の脇戸付櫓門であり、中部地方で集められた欅と岩手県産の松を用いて再建されました。

左右の石垣には門の焼失に伴って赤黒く変色した石材が見られます。桜御門の再建時には傷みの大きい石材には必要な補強を施し、可能な限りオリジナルの石材を再利用しています。

櫓部分は上半分(おおかべ)が漆喰塗、下半分(こしかべ)がしたいたばりで仕上げられ、正面側の門上には瓦の庇が附されています。

筆者が登城したときは桜の文様が描かれたまんまくが架けられていましたが、かつては折々の節句に合わせて三種類の幔幕を架け替えていたそうです。

門扉には透かしがなく、それぞれの扉にちちかなものが4つあしらわれています。

控え柱が両側に3本ずつ設けられ、太く大きい梁を支えます。

石落とし

桜御門の二階は展示室になっており、内部の構造や復元資料を見学することができます。
(公開日は高松城【玉藻公園】公式ウェブサイトでご確認ください)

入口側の天井部には上棟を祝い、工事の無事を祈願した棟札が掲げられています。

桜御門を抜けたところには一文字石垣と呼ばれる背丈の低い石垣が築かれています。

この石垣は門外からの視線を遮り、寄せ手の直進を妨げることを目的としたものです。

桜御門の脇にある陳列館には高松城や歴代藩主等に関する文化財や資料、天守閣の模型などが展示されていますので、こちらもお見逃しなく。

披雲閣

旧披雲閣は老朽化のため取り壊されましたが、高松松平家の別邸、あるいは賓客をもてなす迎賓館として大正六(1917)年に建造されたのが現在の披雲閣です。

内部を自由に見学することができるわけではありませんが、日時によっては一部開放されることもありますので、高松城にお越しの際はぜひ覗いてみてください。

大書院
大書院

披雲閣には大小さまざまな部屋がありますが、なかでも百四十二畳にも及ぶ大書院は圧巻の大きさです。

蘇鉄の間
槇の間

披雲閣の部屋は蘇鉄の間や槇の間など各部屋から見える樹木にちなんだ名前がつけられています。

披雲閣の建造に合わせて造成された披雲閣庭園には長さ150mほどになる枯川が設けられ、松を中心とした背の高い樹木が植樹されています。

大書院の前に鎮座する手水鉢は銀閣寺のものを模して造られ、重さ11トンにも及びます。

次の記事では、月見櫓・水手御門・渡櫓と北の丸について詳しくご紹介します。

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本記事では、高松城の月見櫓・水手御門・渡櫓と北の丸について詳しく紹介します。 前回までの記事はこちら。 [sitecard subtitle=前回の記事① url=https://www.masktomoe23.co[…]

参考
パンフレット
高松城【玉藻公園】公式ホームページ 最終アクセス2024年6月30日