


青森県弘前市、数多くの寺院が軒を連ねる新寺町の一角に位置する最勝院。
細部の意匠にこだわりが感じられる美しい五重塔を有します。
最勝院はこんなところ
寺伝によると、弘信法印が天文元(1532)年に堀越城近くに堂宇を建立したことに端を発すると伝わり、その後慶長年間(1596年~1615年)に津軽家とともに弘前城下へ移りました。
移転当時は弘前城の鬼門にあたる北東(現在の弘前町田町付近)に寺域を構え、八幡宮の別当として禄高300石を拝し、十二ヶ院の塔頭を有しました。弘前藩主は鎌倉五山・京都五山に倣って津軽にも五山を制定しましたが、最勝院は百澤寺(現岩木山神社)などとともにその一つに定められ、五山の筆頭を務めるなど隆盛を極めます。
その後、廃仏毀釈の影響により塔頭を全て失うなど衰退しますが、大圓寺(現大鰐町)の旧地である現在地へと再度移転し、現在に至ります。
(お寺発行の栞より)

最勝院は弘前城の南方に所在し、圓明寺や本行寺、袋宮寺とともに寺町を形成します。現在の境内地や五重塔、什物を大圓寺から引き継ぎ、昭和期に仁王門と本堂が再建されて寺観が整えられました。
境内を散策する
再建された仁王門と本堂

仁王門は三間一戸の八脚門であり、弘法大師1150年御遠忌の記念事業として1984年に建立されました。
最勝院が旧大圓寺の跡地に位置することは前述のとおりですが、旧大圓寺の仁王門も境内の東側に残されており、旧大圓寺仁王門に対して、新仁王門とも称するようです。

2017年に阿形像の眼球が落下したことをきっかけに仁王像の解体修理が実施されますが、その折に胎内より発見された墨書・銘札より仁王像は京都七条仏師右近により承応二(1653)年に造立されたことが明らかになりました。
また、門前には狛犬ではなく一対の兎が鎮座しますが、これは津軽地方で兎を縁起物として扱うことに由来します。

境内の中心に本堂が北面して立ち、その北側に五重塔と鐘楼、東側に六角堂や太子堂を配します。

本堂は1970年に竣工した後に屋根の改修工事が実施され、現在の形式となりました。

ご本尊として金剛界大日如来がお祀りされており、五重塔に安置される胎蔵界大日如来と対をなします。
装飾に富んだ五重塔

最勝寺の五重塔は戦乱の世において戦死した将兵たちを敵味方の区別なく供養するために、大圓寺六世京海の発願によって、津軽家の寄進を受けて、寛文七(1667)年に建立されたと伝わります。

形式は三間五重塔婆、高さは31.3mであり、心柱は継ぎ手のない一本の杉材です。

各層の窓や中備えに変化を持たせた、造り手のこだわりが感じられる五重塔を詳しく見ていきましょう。

初層は正面と他の三面で意匠が異なり、正面は中央間を桟唐戸、両脇を連子窓とし、他の三面は中央間を桟唐戸、両脇を円窓形盲連子とします。

軒裏は地垂木と飛燕垂木がともに角形の二軒繁垂木となっており、組物は尾垂木三手先、隅木には風鐸が掛かります。

各間にあしらわれた蟇股には十二支の文字が一つずつ記されています。


二層目より上層には高欄附きの廻り縁が配されるなど基本的な構造は同じですが、二層目は中備えを蓑束とする一方で、三層目は間斗束とします。

四層目と五層目は両脇を連子窓とし、四層目は各間に、五層目は中央間にのみ間斗束があしらわれています。

相輪が大きい点も特徴であり、全高の約三分の一を占めます。
まとめ
造り手のこだわりが感じられ、見ていて楽しい五重塔を有する最勝院。最勝院とともに付近に点在するお寺や、少し足を伸ばして曹洞宗の禅寺が数多く連なる禅林街をお詣りするのもおすすめです。
公共交通機関でお越しの場合は、「弘前駅」から弘南バス「久渡寺」行き、「金属団地」行き、または緑ヶ丘環状線「弘前駅」行きで「弘前高校前」下車、徒歩すぐです。なお、最勝院には駐車場がありませんので、お車でお越しの方は近隣のコインパーキングをご利用ください。

基本情報
- 正式名称
金剛山光明寺最勝院 - 所在地
青森県弘前市銅屋町63 - 宗派
真言宗智山派 - 指定文化財
重要文化財(五重塔) - アクセス
- JR奥羽本線「弘前駅」から、弘南バス久渡寺線「久渡寺」行き、金属団地線「金属団地入口」行き、緑ヶ丘環状線「弘前駅前」行きのいずれかに乗車のうえ「弘前高校前」下車、徒歩すぐ
- 弘南鉄道大鰐線「中央弘前駅」から700m/徒歩約10分
- 駐車場
無し - 拝観時間
境内自由 - 拝観料
無料 - 御朱印
可/庫裏にて - 所要時間
約20分

参考
お寺発行の栞
最勝院ホームページ 最終アクセス2025年3月8日